2011年8月

私の履歴書 その10

どうしようもないおちこぼれの三年間だった高校時代も終わりを告げる。
そのおちこぼれぶりは「私の履歴書」とほとんど関係ないので省略します。

一年間の浪人生活ののち、関西大学商学部に入学。
同大学も含めて4大学6学部を受験したが、関大だけに合格。
偏差値で言えば、受験した中では関大商がいちばん低かったので、順当といえば順当だ
った。
しかし、特に大学に行く目的意識など持っておらず、したがってなにを勉強したいかなど、
なんにも深いこと考えてなかった。
関大商学部だって、私学でいちばん早く受験があった2月1日だったからくらいの理由だ。

そんなんだから大学に入ったというさしたる感慨もなく、高校時代の延長のような無為な
日々が始まる(←ホンマ親不孝やで)

そんな私の胸中にもひとつだけ小さく燃えている火があった。
24日の「その6」で書いた極真空手だった。
大阪の極真空手道場を私なりに探したが、見つからない。
今ならインターネットで数分でわかるだろうが当時はそうではなかった。

そんな時、極真空手を追ったドキュメンタリー映画「地上最強の空手」が上映される。
上映初日の初回の上映を、大阪梅田の映画館で観た。
場内は満員と言っていいくらいの盛況だったと記憶している。
上映に先立ち、空手着に身を包んだ10数名くらいの勇者が試割りや演武を行っていた。
その中には漫画「空手バカ一代」で爆発的人気を博した芦原英幸氏の姿もあった。

上映後、観客が帰路につく中、私は劇場関係者と見られる男性に声をかけた。
演武出演の方々に合わせていただけないかと。
それはできないとつれない返事。
では大阪に極真会道場はないか訊いてくれ。

極真会館芦原道場は大阪は難波、我が愛する南海ホークスのホーム球場、大阪球場
文化会館というところにあった。

私の履歴書 その9

いつまでも高校時代でとどまっているわけにはいきません。
その総括を。

きのうの話を含め、私が柔道において目覚ましい成績を残したような印象を皆さんに与え
たかもしれません。
全然そんなことないです。
私個人の勝率で言えば、6割を少し超えた程度でしょうか。
しかも全国レベルではおそらく下位に属するである、滋賀県内での勝率である。
ただし個人戦はトーナメントなので、たとえば1、2回戦を勝って、3回戦で負けたとすれば2
勝1敗で約6割7分。
4回戦敗退ならば7割5分となるわけですから、9割の勝率なんかだと相当高い。
しかも1、2年生のときは上級生と当たることもいくらでもある。
(またこの辺言い訳がましいですね)

そしてなにより勝ちに対する執念があったかというと、これが極めてあやしい。
例をあげれば私は寝技が嫌いで、ほとんど練習もしなかった。
立ち技(投げ技)はある程度センスのようなものが必要であるのに対して、寝技は努力す
れば誰でもその分強くなれるような面がある。
なぜ練習しなかったかといえば、地味で面白くないからである。

面白くないというのは特に観客の目から見てである。
私はかつてアントニオ猪木を崇拝していて、柔道においても彼のファイトスタイルを標榜し
ていた。
つまり観客が観て、それも素人の観客が観ても面白いと思える柔道を目指していた。
それはやはり豪快に畳にたたきつける投げ技でしょう。
それだからか、私は引き分けの率が極めて少なく、しかも投げ技による一本勝ちか一本
負けが多かった。

それに、我が彦根東高校の柔道部員も勝利への執念を持ち合わせているとは到底思え
なかった。
3年生で、私が主将を務めたときの同級生は私を含めて7人。
全員の平均身長、体重がざっと167㎝、63、4Kg程度の大型とは程遠いチームだった。
それに加えて厳しい練習など無縁。

これは本当の話である。
2年生のとき、彦根東中学の落語部(日本初の中学落語部)出身の同級生S君が私に言
った。
S「間宮、乱取り(投げ技、寝技の実戦的稽古)しょうか」
私「(え、こいつが自分から練習とは珍しい・・)ええよ」
S「内股するなよ」
私「え、あぁええよ」
S「巴投げするなよ」
私「・・・ええよ」
S「よっしゃ、やろ!・・・あ、一本背負いするなよ!」
私「・・・」
S「あ、やっぱりするつもりやったんや!この卑怯モン!!」
なにしに彼は柔道部に入ったのだろうか。

こんな生ぬるい柔道部であったが、県大会の一回戦、3校によるリーグ戦ではいつも勝ち
上がり、ベスト8に進出していた。
他の学校はウチよりぬるかったんだろうか。

その母校の柔道部も、今は存在しないらしい。

私の履歴書 その8

10回も書けばこのシリーズも終わりかな、と思ってましたがまだこんなところです。
皆さま、もう少しのご辛抱を。

2年生から5人(または7人。この場合は勝ち抜き戦)の団体戦メンバーに選ばれていた。
3年生の先輩はわずか4人しかおられなかった。
それもT主将以外はたいして強いひともなく、私と能登川中学で主将だったF君と私が2
年生でレギュラーに割って入った恰好になった。

高校時代の私のベストファイトだったと思える試合に触れよう。
あれは地元彦根市での試合だった。
2年生の5月頃だったと思う。
団体戦の結果は芳しくなかったと思う。
二日目の個人戦であった。
今はどうか知らないが、当時の体重区分は軽、中、重量級の3階級で、それぞれ60Kg未
満、70Kg未満、70Kg以上の三階級しかなかった。
当時の私は168㎝くらいで62~63Kg程度で中量級。
その頃はわずか3Kgを落とすという発想さえなかった。(顧問の先生もいたって無関心で、
柔道部を強くしようなんて気はさらさらお持ちではなかった。)

そんな私が初戦で当たった相手は瀬田工業高校(ベムの母校)の主将、3年生のKさんだ
った。
Kさんはインターハイ個人戦にも選ばれた強豪だった。

Kさんの低く入る背負い投げの威力はよく知っていた。
私が勝てる確率は極めて低いと思われた。

しかし私は一回戦だけはどうしても勝ちたかった。
相手が誰であろうが。

試合開始直後、私は得意技のひとつである巴投げの「奇襲」に出た。
Kさんの体は大きく宙を舞ったが、着地寸前、体をひねって背中が畳に着くのを避けた。
判定基準は年々変わっており、今の状況をよく知らないが、ちょっと前の「効果」か「有効」
くらいはあったと思う。

そこからKさんの猛攻が始まる。
得意の右の背負い投げが雨あられと繰り出された。
私の体は何度も一回転させられることになるが、私も体をひねって背中が畳に着かないよ
うに必死だった。
顔面を畳に打ちつけられ、眉間辺りからひと筋の赤いものも流れた。

3分間の試合時間が終わろうとした頃、私の右手が相手の左そでをしっかりつかんだ。
左の吊り手も充分だ。
右脚を相手の脚の間深くに送り、思い切り跳ね上げた。
私の体もろとも、空中で一回転してふたりは畳に落ちた。
当然私の体が上で、Kさんが下。
畳から見上げる恰好で主審の右手があがるのを確認した。

残り2秒の大逆転勝利だった。

私の履歴書 その7

私と同時代の男性なら、半身に構えて小刻みに顔を揺らし「フゥ~ッ、アチャ~ッ!」と奇
声を発しながらサイドキックを放ったひとは多いだろう。

たった一本の無名の東洋人俳優が主演した映画が、世界中を大ブームに巻き込んだ。
当初はカンフーという言葉さえ浸透しておらず、「空手映画」という呼び方をしていた。

チャンバラ映画と同じく、その動きは筋書きにのっとっているにせよ見事だった。
そして公称168㎝、62Kgという屈強とは言い難い東洋人が息もつかせぬ動きで西洋の大
男を手玉に取るのに溜飲を下げた。

ブルースは筋骨隆々の大男ではなかったが、今の言い方を借りれば「細マッチョ」。
ひとつの無駄もないその研ぎ澄まされた肉体がよけいにカッコよかった。

しかし「燃えよ ドラゴン」が封切られたときには、すでに彼はこの世のひとではなく、その
あまりの人気ぶりから過去にさかのぼって「ドラゴン 危機一髪」「ドラゴン 怒りの鉄拳」
「ドラゴンへの道」が相次いで公開された。(のちには未完成作品だった死亡遊戯も)

ブルース・リー作品だけでなく香港のカンフー映画は雨後のタケノコのように公開された。
ほとんどの俳優の名は覚えてないが、「片腕ドラゴン」のジミー・ウォング、倉田保昭との
コンビが絶妙だったブルース・リャンなどは覚えている。
(香港で大成功した倉田氏も憧れでした。NHKの「中学生日記」に体育教師役で出てたの
も覚えてます。)
日本でも千葉真一、真田広之などが後を追った。
高校三年の休み時間、一緒にトイレに立った柔道部のN君に「殺人拳2(千葉真一主演)
観に行こか?」と言って、次の数Ⅲの授業をフケたこともありました。

その数年後には、少しコミカルな感じのジャッキー・チェンやサモハン・キンポーなどが出
てくる。

話をブルースに戻そう。
矢継ぎ早に繰り出されるサイドキック、上段回し蹴り、後ろ回し蹴りなどは男どもを虜にし
た。
フィルムを早回ししたかのようなヌンチャクにも心奪われた。
彦根市内の川島玩具店にプラスティック製のヌンチャクを買いに行ったら、同級生のちょ
っと太った川島君が出てきて、300円を280円にまけてくれたのを思い出す。

なんだか映画史のようになってしまいましたが、ブルース・リーが私の空手への想いをよ
り強めてくれたということを言いたかったのです。

私の履歴書 その6

きのうは一年生の冬まで行きましたが、少し時計を戻します。

一学期の中間試験か期末試験のときだったと思う。
既におちこぼれ街道驀進中だった私は、試験のできがいつものように悪かった気分転換
に(←そんな暇あったら勉強せいよ!)、平和堂近江八幡店の書店に向かった。
もちろん参考書コーナーなんかには目もくれもせず、雑誌をいくつかパラパラとめくった。
そこで私の人生に大きな影響を与えたものに出会う。

週刊少年マガジン、巻頭のカラーグラビアには宙を舞うひとりの男がいた。
表現しづらいが、腰の部分を直角に折り曲げた数人の男が横に並び、その倍くらいの高さ
のところを、空手着を着た男がジャンプしているのである。
下の男たちも空手着である。
つまり数メートルの距離をとび蹴りで超えている図だった。

当時同誌で連載されていた漫画「空手バカ一代」の主人公、大山倍達氏率いる極真会館
の合宿風景だった。

私はこのとき初めて極真会の名前を知った。
いや、極真どころか空手についてもほとんど知らなかった。

今は空手道場なんかはいくらでもあるが、当時はそんなもの見たことさえなかった。
(まぁ、田舎だったこともあるかもしれないが)
大げさでなく、空手と言えば「瓦を割る競技」くらいの認識だったように思う。

それからは毎週の空手バカ一代が待ち遠しくてしょうがなかった。(←全部立ち読みでし
た。すいません。)

空手をやりたいと思いました。
それも極真空手を。

しかし前述したように道場がない。
極真である、なしにかかわらず。

しょうがない、大学に行けば空手部もあるだろう。
それまで我慢しよう。
今は柔道で頑張ろう。

高2の冬休み頃だったと思うが、第二の波が私を襲う。
ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」だった。

私の履歴書 その5

中学校を卒業した私は滋賀県立彦根東高校に進学した。
そこには八幡中学の柔道部で一年先輩だったTさんがいた。
入学式の日、間延びした声でTさんが「間宮ぁ、柔道部入れやぁ~」と言ってきた。
むろん異論はなく、私はその日に入部した。
主将だったTさん(別のひと)からの玉子丼を契約金に、めでたく柔道部員となった。

先輩方は別に怖いひとはいなかったが、中学レベルでは強かった私も、高校生の中では
まったくと言っていいほど歯が立たなかった。
(中3途中から柔道部活動を離れたせいもあるとは思うが)

しかし新一年生の中では期待され(中学からの柔道経験者は私ともうひとだけしかなく、も
うひとりのM君は八幡中の同期で、彼は5人のレギュラーではなかった)、5月か6月に行
われた初段の昇段試験は、自信満々で臨んだものの、結果は1勝2敗1分けでまさかの
不合格。
一年生で最も早く黒帯を締めるという夢は破れさった。
その後、初めての夏休み中に鼻骨湾曲の手術をし、相当期間練習ができなかった。

秋頃にまた昇段試験があり、私は出られなかったが、そのM君が受けた。
彼と練習していても、圧倒的に私の方が強かったので、不合格だろうと高をくくっていた
が、なんとその彼が合格。
私は取り残されたような絶望感に襲われた。(←今考えればどってことないのに・・・)

その後冬に行われた二度目の挑戦で合格し、遅まきながら念願の黒帯を手に入れた。

私の履歴書 その4

さて、内股という技を身につけてからの私の勝率は劇的に向上した。
しかも一本勝ちでの勝利が激増。
内股を手に入れたおかげで他の技も生きるようになった。
(ちなみに、同時に内股を教えこまれた他の三人はこの技を習得することはできなかった)
ストレートが早いとその投手の変化球も効果的に使えるのと似ているのかもしれない。
その頃私が他に使っていた技は、一本背負い、出足払い、巴投げ、プロレスのバックドロ
ップの原型とも言われる裏投げなどがあった。

中学卒業近くになると、一年生の頃にはまったく歯が立たなかった主将のH川君を凌駕す
るほどになっていた。

※「その1」で体育の成績が良くなかったと書いたが、中学生になってからも同じ状態が続
いた。
ただしこれは基礎体力の部分、つまり体力測定などに代表される「走る、跳ぶ。投げる」
等の能力が劣っていたのであり、なにかの理想的なフォームを再現したりするのは結構イ
ケてたと思う。
たとえばピッチャーとして投球すれば、スピードはないがコントロールはよかった、と言え
ば少しはおわかりいただけるだろうか。 

私の履歴書 その3

今は中学生で黒帯の柔道選手は掃いて捨てるほどいるが、私が中学生の頃はほんとに
少なかった。
私と同学年では県内でただひとり、小学生から町道場で鍛えていた大津市内の中学校
のE君だけだった。
黒帯の価値が高い時代だった。
1、2級を表す茶帯でさえ一割あるかないかだったんじゃないだろうか。
茶色の帯を腰に巻くことは憧れであり、目標だった。

レギュラーである主将のH川君、H田君、H井君と私の四人は一年生の途中から近江八幡
署の道場での柔道教室に通っていた。
中学生以上は一般の人たちと一緒だった。
体の大きい大人たちに混じっての練習は有意義だったと思う。
なにより、大人の人たちとの話も面白かった。

小学生の低学年くらいまではおとなしかった私も、この頃にはすっかり大阪弁でいう「イチ
ビリ(お調子者のようなニュアンス)」になっていたので、大人の先輩をよくイジッタりしてい
た。でも言葉づかいには気をつけていたので可愛がられた。
だから今では逆に若いひとにいじられるのは好きだ。
ただし、当然敬語等、言葉づかいをしっかり守った上でのことだ。

若い諸君、どんどんオッサンをイジろう^^

話がそれたが、そこで教えておられたY先生は当時20歳そこそこで4段の実力者だった。
先生は、ある日二年生になっていた我々四人を集めておっしゃった。
「内股をやってみぃ」

内股(うちまた)という技は決まり手の統計上では1番目か2番目くらいに来る、実用性の
高い技である。
吉田秀彦選手がバルセロナ五輪78Kg以下級(あの頃は細かったなぁ)で優勝を決めたの
もこの技だった。

ご存じないひとのために解説すると、相手の襟と袖をしっかりつかんだ状態で、利き脚を
相手の股間に入れ、太ももあたりで跳ね上げるのである。
普通の選手は太ももで跳ね上げるのだが、先生の指導は低く入って行き臀部(お尻)で
跳ね上げよというものだった。
低く入り込む練習、つま先を自分の身長くらいまで跳ね上げる練習を並行して何度もやっ
た。

この技が私に合っていた。
初めて必殺技と言えるものに出会えた。

それからは高い確率で勝つことができた。
前半攻め込まれて、ポイントでリードされてても逆転できる自信も出てきた。

三年生も近づいた頃、高校生や一般のひとも含めた五人総当たりの昇級試合でも3勝1分
けの好成績で1級を取得、憧れの茶帯を手にすることができた。

私の履歴書 その2

さてキックボクシング熱もそう長くは続かず、いつしか忘れていき、私は近江八幡市立八
幡中学校に進学する。

中学になれば部活動という新しい世界が広がる。
私はその活動の場として剣道部を思い描いていた。
あの恰好にあこがれてたのかもしれぬ。

が、実際に入ったのは柔道部だった。
一年先輩で同じ町内のHさんがいたからかもしれない。
プロレスは好きだったが、特に柔道が好きだったわけではない。

しかしやり始めたらこれが面白い。
中学入学時145㎝程度の身長で大きくはなかったが、2年生や3年生の先輩に投げられる
ことさえ楽しかった。
他の小学校からの同級生部員10名ほどで仲良くやっていた。

ところがその年の途中からスポ根ドラマの金字塔「柔道一直線」が始まる。

「あしたのジョー」や「巨人の星」で日本の少年たちの心をつかんだ梶原一騎氏原作のテ
レビドラマだった。
それからがさぁ大変、テレビに感化されたヤツらが入ってくる入ってくる。
一時は一年生だけで30名近くに膨れ上がった。

仲間が増えることは嬉しい反面、団体戦5人の枠をめぐる争いは激しさを増す。
えらいこっちゃ。

一年生の中では図抜けた強さのH川君は文句なし、同じ町内のH田君、H井君がこれに
続き、残りの2枠を私とK君が同着くらいで滑り込んだ。
(テレビに感化されて入部した者は次第に減っていき、最終的には元の10人ほどに戻った)

とはいうものの、私には「決め手」がなかった。
柔道初心者ならほとんどの人間がこれから教わるだろう背負い投げ。
これをメインに組み立てていたが、足腰の弱い私には向かなかったのか、ほとんど実戦で
日の目を見ることはなかった。

私の履歴書 その1

昭和31年に生を受けた私は、同37年に小学生となる。
その頃の私はおとなしく、成績のいい(当時はですよ)小学生だった。
出しゃばったところのない、フツーのガキだった。
なぜか一学期の学級委員によく選ばれた。
とは言っても35名ほどのクラスがふたつ。
ひと組20名くらいの男子の中からだから、たかがしれている。

私はこれが大嫌いだった。
「代議員会」なる一年生から六年生までの各クラスの学級委員が出席して、なにやら話し
合うのだが、内気な私は指名されて発言するのがとてつもなくイヤだった。

しかし、友達は多かったし、なぜか向こうの方から寄ってくるようなところもあった。

さて成績はいい、と書いたが体育の成績はよくなかった。
5段階中、判で押したように3だった。
特に足が遅く、運動会などは6人中5位か6位が定位置で、毎年秋が来るのが憂鬱であっ
た。
(結局、6年間で4位になったのが一回だけあり、3位入賞は夢の夢で終わった) 

こんな少年は、ある日の新聞のテレビ欄に「キックボクシング」という文字を見つける。
(確か、4年生か5年生の時だった)

翌日学校へ行くと、男子生徒の間ではその新しいスポーツのことで持ち切りだった。
放課後の掃除時間などは、雑巾がけなんかそっちのけでみんな足を高くあげてヒーロー
になりきっていた。
おそらく「沢村忠」の名前も第一回の放送にあったと思うが、彼のみならず、キックボクサ
ーは日本の子供たちの心を鷲掴みにしたはずだ。

私もそれまでプロレスなんかも観ていたが、あれほどの衝撃を受けたことはなかった。

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