2011年9月

私の履歴書 その21

その京都のS道場が大会を開催した。
空手、キックボクシング、ボクシングの各部門があった。
当然私はキックに出場した。

大会はオープン形式だったかもしれないが、結果的に出たのはSの練習生だけだった。
出場人数も多くはなく、私の出た階級は8人のトーナメント。
つまり3回勝てば優勝という少々寂しいものだった。

M先生もボクシングのレフェリーを務めるために来てらした。
キックボクシングに出場した8選手中、唯一ボクシングクラスに顔を出していた私のために
丁寧にバンテージを巻いていただいた。
嬉しかった。

1回戦は1Rで2回のスタンディングダウンを奪いKO勝ち。
2、3回戦は、どちらも判定勝ちで優勝。
参加者のレベルからいって、それほどの嬉しさはなかった。

私は参加しなかったその夜の打ち上げの様子を、後日誰かから聞いた。
M先生はキックトーナメントに出場した若い選手たちに「お前らあんなオッサンに負けて恥
ずかしいと思わんのか」と説教されてたらしい。
でも私からすれば、キャリアはこっちの方が長いのだし、勝って当然だと思っていた。

そのM先生がある日私に言われた。
「お前は指導者になったら絶対ええ指導者になる」と。

私のなにをもってそうおっしゃったのかはわからないが、その頃は「指導者」なんて天地
がひっくり返ってもなれるとは思わなかったし、なろうとも思わなかった。
(私は自分という人間をよく知っている)

しかしその後、神様のイタズラで(本当に私はそう思っている)そういう話が降ってわいた。
そのときに私の頭の片隅に引っかかっていた、M先生のこの言葉がいくらか背中を押して
くれたことは確かだ。

今は亡きM先生、あなたの指導精神の何割かは私の中で息づいているのは間違いあり
ません。

私の履歴書 その20

19日までに、このシリーズ終わりそうにありません。
まぁええわ、行き当たりばったりの人生、適当に行きます。

41、2歳だったと思う。
それまで勤務していた会社の計理課長に誘われ、同業種の会社設立を持ちかけられ、滋
賀県に戻る。(え、会社?当然うまくいきませんでしたよ)
それで寝屋川ジムを離れることになり、体を動かせるところを捜した。
仕事で京都市内を走っていて、偶然Sというところを見つけた。

そこは「空手、キックボクシング、ボクシング」等、複数の競技の看板を掲げていた。
早速飛び込んで話を訊くと、京都市内にもう一か所道場があり、各曜日の時間帯ごとに
各競技のスケジュールが決まっている。
たとえば空手がやりたければ、月曜日は19時からA道場、火曜日はB道場で20時からと、
それを集中して受けることができる。

私は体験練習もせずに入会申し込みした。
キッククラスに出てみて、ちょっと今までと違うやり方にとまどった。
空手の練習スタイルに近い。
今までの「アメリカンスタイル」というか、好きな時間に来て好きな時間に帰るというもので
はなかった。(もちろんこれにも大きなメリットがあるが)
           
そこでメインをボクシングクラスに移すことにした。
もともとパンチの打ち方に確固たる自信を持てなかった私である。
ここで根本的に教えてもらおうと、ボクシングクラスに顔を出した。

ボクシングの先生、Mさんは年齢は今の私より少し若いくらいの50代前半だったと思う。
175㎝くらいの長身で細身、メガネをかけ、大きな声で明るくユーモアある魅力的なひとだ
った。
私はすっかりM先生に魅了され、ボクシングクラスを追いかけだした。

ボクシングは空手やキックに比べて受講生は少なかった。
その少ないひとたちもほとんどが経験者の上級者で、私のようなヘタクソは他に誰もいな
かったと思う。

そんな歳くった変わり種が現れたからだろうか、M先生は面白がってか丁寧に教えてくだ
さった。
少しは私のパンチ技術も向上したと思う。
若いとは言えない私を「ジッちゃん」と呼び、よくイジられた。
私は先生にそうしてイジられるのが好きだった。

そのM先生が目をかけている選手がいた。
160㎝台半ばで浅黒いフィリピン人のような顔立ちの青年だった。

青年も最初は私のことを「変なオッサンやなぁ」と思ってたと思う。
しかし私が飽きずに通ってくるのを認めてくれたか、次第に言葉を交わしてくれるようにな
った。

格闘技はボクシングしか興味がないかと思っていたが、彼はのちにあるアマキックの大会
に出場し、ほとんどパンチ技術だけで優勝してしまう。
そんな彼を見た主催者は彼をキックの道に誘い込み、キックボクサーへと転向してゆく。

のちにNKB第4代バンタム級チャンピオンとなり、現京都真門ジム会長の野口康裕との出
逢いにまつわる話である。

私の履歴書 その19

9日に書いたように、転職したおかげで横山ジムを離れざるをえなくなった。
当時住んでいた東大阪市から、本社のある枚方市まで、片道2時間ほどのクルマ通勤が
始まった。(のちに大阪市内の営業所に異動となり楽になった)

ある日、その通勤途中にある看板を見かけた。
赤地に黒で描かれた男がふたり、ひとりがもうひとりにハイキックを浴びせている絵。
横には「SHOOT BOXING」の文字が。

シュートボクシングに関しての知識はあった。
大雑把に言えば、キックボクシングの技術に投げを加えたものと言えるだろう。(現在は立
ち関節も認められているようだ)
コスチュームはロングスパッツで、体重区分もバンタム、フェザーなどは用いず、鳥の名前
(イーグル級など)で表現していた。
これは創始者のシーザー武士氏がキックボクシングとの違いを打ち出すための工夫だっ
たと思う。

早速、見学のためジムを訪れると、ドア横の机に温厚そうなひとが座っておられた。

中山会長だった。
会長は私のことを「ご主人」と呼ばれた。
まだ30代後半だった私をそんな呼び方をする。
裏を読めば、あの頃はその歳で打撃系格闘技、しかも顔面打撃の格闘技をやるひとが
極めて少なかったという証しだろう。

あの頃は今のように、顔面打撃制のオープン参加式の大会は多くなかった。
しかもその中でシュートボクシングはトーナメント制をとっており、軽、中、重量級に分かれ
た上位入賞者は相当にレベルが高かった。(特に参加人数の多い軽、中両級は)


今もウチの選手たちを引き連れて出げいこに行かせていただくなど、中山会長にはお世
話になっております。

私の履歴書 その18

また少しだけ時間を戻します。

リング上でのたうちながらも、私はキックボクシングの魅力に取りつかれていった。
ジムに入会してから3ヶ月ほど経った頃だろうか。
アマチュアの試合が開催されることになった。

試合と言っても練習試合というもので、現在よく見られる、参加料を徴収してのオープン参
加形式ではなかったと記憶している。
「練習試合」というのは、その頃大阪府にジムをかまえ,、JKFという団体を形成していた
北心、豊中、多田、横山の四つのジムの交流戦のようなものだった。

試合は豊中ジムで行われた。
初めて訪れるよそのジム、そこに集う、アマチュアとはいえ多数のキックボクサーの若者
たち。
すべてのひとが私より強く見える。
生まれついての小心者の私は、極度の緊張状態に置かれていた。

試合は3分2Rだったと思う。
私の番が来た。
相手の名前も所属ジムも覚えていない。
ただ180㎝近い長身だったことと二十歳そこそこの、私よりひとまわりほど若い青年だった
ことしか記憶にない。

ゴングが鳴った。
相手はものすごい勢いでパンチを撃ってくる。
私も応戦するが6:4か7:3で相手が有利。
しかし今考えれば、相手選手の技術もたいしたことはなかったはずだ。
初心者にありがちなただ闇雲に大ぶりのパンチをふりまわすだけの試合だった。
私は1Rの途中でもう勝ちをあきらめていた。
それは相手がとてつもないスタミナの持ち主に思えたからだ。

ところが、後半くらいからスピードが鈍ってきた。
当然だろう、いくら若くてもあれだけ全開でくればスタミナも持つまい。
当時はそんなことさえわからなかった。

結局2Rは互角くらいに盛り返したと思うが、1R前半の劣勢により私の判定負け。

2戦目はどこでやったかも、どんな試合だったかもまったく記憶がないがこれも判定負け。

そして3戦目。
多田ジムで行われた試合だった。
このときの相手も所属ジムも覚えてない。

どういう試合展開だったかも覚えてないが、1Rはとったという実感があった。
セコンドについてくれてたY兄弟も声をからして応援してくれ、インターバルにはY兄が「間
宮さん、勝ってますよ!」と勇気づけてくれた。

第2Rも1Rのような状況を維持し試合終了。
判定ではあるが、初白星を手にすることができた。

勝てたことも嬉しかったが、ジムの仲間が我がことのように声援を送ってくれたことが嬉し
かった。

後年、葵勇之進が初のアマ試合後に語った名言「キックボクシングはチームプレイだ」と
根は同じだ。

4戦目は横山ジムで行われ、初のKO勝ち。
その後は勝ったり負けたりを繰り返したが、本来の入門動機「フルコン空手へのリベンジ」
はもうどうでもよく、キックボクシングにドップリつかっている私がいた。

私の履歴書 その17

横山ジム入門初日。
練習開始時間より少し早めに行き、どんな会長が来るのかと期待と不安で待っていた。
やがてスライドドアが開き、そのひとが入ってきた。

身長は160㎝台前半くらいだが頑健そうな体、少しゆるめのパンチパーマ、ドスの効いた
低音の語り口・・・
(アチャ~、失敗した・・・)と思った。
ちょっと怖そうだった。(会長、すいません)
実際話してみればそんなことはなく、いいひとでした。

ジムには20~30人くらいの練習生がいただろうか。
先輩でトレーナー格のMさんを除いては私が最年長だった。
当時私は35歳で、他に30代はいなかったと記憶している。

けっこうスパーリングをやるジムだった。
キックは初めての私も積極的に参加した。
グラブをつけて顔面を殴り合うのは、フルコン空手とはまったく違った。
大学生と、高校生のY兄弟がいて(キャリアは長かったようだ)、180㎝近くの長身の彼ら
から容赦ないストレートパンチを浴び、リング中央に這いつくばった。

武本というプロボクシング上がりの選手がいた。
彼は卓越したパンチテクニックを持ってはいたが、年長者の私に敬意を表してか、オブラ
ートに包んだ対応をしてくれた。

彼は確か、京阪森小路駅近くの映画館に勤務していて、私が映画好きだと告げると、タダ
券をくれたりした。
お礼に安物のケーキ数個を持って観に行ったのを思い出す。

その後転職し(・・・)横山ジムから離れた。
ある日「格闘技通信」を立ち読みしていて、後半のページに目が止まった。
丸々1ページ、白黒ではあったが写真つきで大きく取り上げられていたのは「ガルーダ・
テツ」と名前を変えた武本選手であった。

私の履歴書 その16

「お前、練習したらもっといけるぞ!」
試合後、開口一番そう言ったのはZさんだった。

ほとんど練習らしい練習もせず、ただ格闘技と訣別するために出場したこの大会。
一回戦で敗退は間違いないと思っていたが、ふたつも勝てた。
そこに敬愛するZさんの上記の言葉。
来年もやってみようか、という気になった。

捲土重来を期すということになると、今までのようないい加減なことではいけない。
ちゃんとした練習環境に身を置かねばならない。
所属先を探した。

どういう経緯かは忘れてしまったが、大阪市鶴見区に横山ジムというキックボクシングジ
ムというのがあるのを知った。
当時私は門真市というところに住んでおり、そう遠くはない。
一度見に行こう。

1990年に「国際花と緑の博覧会」、通称花博が行われた鶴見緑地近くにそれはあった。
数十台分の屋外月極め駐車場の敷地内の奥に、木造のそう大きくはない建物。
格闘技と呼ばれるものをいくつかかじってきた私であったが、キックボクシングという響き
は少し怖さを感じさせた。
ためらいを振り払い、恐るおそる中を覗いた。

5、6人くらいのひとがいただろうか。
あいにく会長は不在だったが、その中で最年長と思われるひとは私より少し上くらい。
練習生も普通のひとばかりで、特別怖そうなひともいない。
2、3の質問をしたように思う。
キックボクシングはやはり実戦的なイメージがあった。
来年の試合にむけて腕を磨くには最適かと思われた。

次の練習(当時は週3回の練習だった)から参加する旨を告げジムを辞した。

私の履歴書 その15

ろくでもない学生生活にも終わりを告げ、なんとか大阪で就職もした。
(しかしずっと働き続ける気はなかった。なにか他に明確な最終目標があったわけでもな
いのだが)

これから書くことは本当に恥をさらすことに他ならないが、ここから今までに輪をかけたよう
な転落人生を歩むことになる。
犯罪にこそ手を染めることはなかったが、最初の会社を一年半くらいで退職してからは、
ほぼ半年ごとくらいに転職を繰り返した。(最初の会社は先輩と飲むのが楽しみで長く続
いた^_^;)
将来に不安を感じることもなく、その夜酒にありつけるだけのカネさえあればいい、という
ような自堕落な生活だった。
なぜか半年くらい経つと、仕事が面白くなくなり転職した。(けれどなぜか正社員だった)
あの頃の私は「職業同一性障害」だったと思う。

そんな生活を送りながらも、心の片隅には空手への想いがくすぶり続けていた。
(大学卒業後は練習らしい練習なんかしたことなかったのに)
33歳か34歳だったと思う。
この中途半端な気持ちにケリをつけよう。
もう空手にスッパリ見きりをつけよう、と思った。
そのために試合に出てきれいさっぱり足を洗おうと考えた。

その頃にはいわゆるフルコン系の流派が多数存在し、極真空手のようにオープン形式の
大会スタイルがほとんどだった。

大阪府の守口市民体育館で、Kという流派が大会を開催することを知り、エントリーした。
ちょっと前に私が店長を務めていたレンタルビデオショップにアルバイトに来ていた、正道
会館有段者のI君ににわかトレーナーを務めてもらい当日に備えた。
(わずか数日間の準備期間だった)

今でこそ40代のひとが顔面打撃可の、キック形式の試合に出るひとはそんなに珍しくない
が、当時はフルコンの大会でさえ、30代の参加者は少なかった。
段外、有段の部にわかれており、それぞれ軽、中、重量級があり、私は有段の部中両級
に出た。(もちろん段など持ってないが)
おそらく300人を超える参加者中、私が最年長か二番目くらいだったと記憶している。

当日は友人が何人か応援に来てくれた。
トレーナーであるI君はもちろん、7月21日付けへたよこに登場したふたりのK君とN君。
9月1日から登場したZさん、その合気道仲間のI君などなど。

当時の私の体格は今とほぼ変わらず、171㎝、70Kg弱だったと思う。
一回戦、相手は22、3歳のSという流派の長身の選手だった。
180㎝近くあったと思うが、体重は私より軽かった。

私はキックボクシングに転じてからは、試合前は極度の緊張感にとらわれるのが常だった。
しかしこのときはそんなに緊張した記憶がない。
単に時間の経過とともに記憶が風化しただけだろうか。

そんな中試合が始まった。
緊張感も怖さもあまり感じなかった私はどんどん前に詰めていき、前蹴り、ミドル、突きを
放っていった。
重心の高い相手選手をローキックで転がしたのも覚えている。
結果は一本勝はならなかったが、技ありをとっての判定勝ちだった。

二回戦。
アントニオ猪木がその設立に関係していたK流空手の選手だった。
体格は私と同じくらいだった。
これも一本はとれなかったが、完全に勝ったと思える試合で三回戦にコマを進めた。

三回戦で主催のK拳法の選手と対戦となった。
身長は私とほぼ同じ、体重は65Kgくらいの選手だ。

試合開始。
今までの選手とは明らかに動きが違った。
軽い身のこなし。
なにかは忘れたが技ありをとられた。
その後、30秒ほど経ってからか、場外際でハイキックをもらい、ふらついた。
一瞬軽い脳震盪のような感じでふらついたが、近くにいた主審に支えてもらう形でダウン
はまぬがれた。

合わせ一本で負けが決定。
その日はその選手が優勝した。

後日なにかの格闘技雑誌で、彼が極真会の全国大会で三回戦まで進出したことも知っ
た。

こうして私の空手とのつながりは終わる・・・はずだった。

私の履歴書 その14

相変わらずなんの目標も定めぬ、無為徒食の暮らしが続く学生生活。
Z先輩も2年間の留年ののち卒業していかれた。
残された(私も2年留年した)私にこんなことをささやく男がいた。

経済学部のS君だった。
レスリング部に所属していた彼も留年組。
その彼から「相撲部がピンチだ」ということを聞いた。

かつては全国大会制覇もし、学生横綱も輩出した関大相撲部。
それが存続の危機にあるという。
部員不足である。
当時5年生(!)の主将と1年生部員がひとり。
それに女子マネージャーがひとり。

法文学部近くにポツリと建つ木造(当時)の小屋が道場だ。
そこに行くと私より小柄だが80Kgはあろうかという主将、壇ふみ似の相撲大好き女子マネ
ージャーKさん、1年生で大きな体ながらも相撲未経験のI君がいた。
(ちなみに私は170㎝、70Kgくらいだった)

私はプロレス、キックボクシングは好きだったが、相撲はたいして好きではなかった。
が、相撲のトレーニング方法には興味があった。
一度経験してみたいと思っていた。
6年も行ったんだから、何か得てやろうと入部した。

K監督は関大職員で、毎日昼休みには90Kg(身長は170㎝くらい)はあろう巨体でグラウ
ンドを走る元気な方だった。
監督が現役だった頃は関大の全盛期と言える時期で、学生横綱だったH先輩と同じ土俵
で汗を流された。

毎日の練習にも監督は顔を出された。
相撲の稽古で一番きついのがぶつかり稽古だ。
土俵上に仁王立ちで胸を突き出す監督に頭でぶつかり、土俵際まで押して行く。
ぶつかる。
だがそれからが動かない。
足に根が生えたように動かない。
なんとかしようともがくが、横にすっ転がされてしまう。
そんな繰り返しで泥にまみれた。

柔道や空手など少しはかじった私であったが、「怖い」と感じたのは相撲が初めてだった。
なにが怖いかいうと、立ち会いのとき低い姿勢で両者相手にぶつかって行く。
そのとき頭で当たれというのだ。
脳天と額のちょうど中間くらいのところで。
こっちも全力、相手も全力で当たるのである。
「ドスッ」と鈍い音がしてそれ相応の痛みがある。
しかしその当たりどころがズレてしまうとエライ目に合う。
首やらどこやらを痛め、数日間続く。

試合を数日前に控えたある日、団体戦には3人で足りないので他から助っ人を頼む。
レスリング部の重量級と申し合いをしていたときのこと、立ち会いでの当たりが少しズレた
か、私の顔の左半分は大きくはれ上がり、試合当日でもその状態だった。

わずか一年足らず、公式戦戦績2勝5敗の相撲体験だったが、得たものは大きかった。
K監督の選手に対する観察眼である。
厳しい稽古を課しながらも注意深く、フィジカル面、心理面を見ておられたと思う。
「これ以上やると危ない、やっても意味がない、逆効果だ」などと考えておられたと思う。
その10分の1くらいは今の私に受け継がれているかもしれない。

関学大、龍谷大ともよく合同稽古をした。
そこで仲良くなったひとも多いかった。
合同稽古は関大で行われることが多く、終わったあとはいつもちゃんこ鍋が待っていた。

薪で沸かした風呂で汗を流したあとの宴会。
マネージャーKさんが作る、関大伝統の秘伝のタレは絶品で食が進んだ。
もちろんビールや酒も常時道場にあり、当然飲んだ。
今の時代、大学といえども学内で飲酒はできるのだろうか。

永らく参加してないOB会に行きたくなってきた。

私の履歴書 その13

入門して三カ月ほどして初の昇級審査を受けた私は6級(黄帯)になっていて、Zさんと初
めてお会いする前の日までに、二回目の審査手続きを終えていた。
しかしZさんとの話で、急激に極真空手から冷めていった私はこれを受けることなく道場を
あとにした。

その後、学内でZさん、Oさん、私が中心となって「格闘技研究会」なる大学未公認の組織
を設立した。
「殴って蹴って放りなげる」というキャッチコピーの手書きのポスターを校内に貼った。
フルコン空手に投げをプラスしたようなものを目指した。
それによりあと4名のモノずきが入ってきた。

ただし大学未公認であるゆえ、練習場所の確保も難しく、いつしか自然消滅のような形と
なってしまった。

しかしZさんと巡り合えたことは私の財産である。
氏は現在大阪府警に奉職されており、距離的に少し離れていること、私の仕事終了が遅
いことなどもあり、一年に一度くらいしかお会いする機会はないが、それでも敬慕の念は
消えない。

初めてお会いして数日後、大阪府岸和田市のご実家にOさんと招かれた。
ご実家は南海本線蛸地蔵駅近くで食堂を営んでおられた。
ご両親やお兄さん、お姉さんなどご家族他数人で切り盛りされていた。
たまにZさんの旧友Gさんなども気軽に寄って、出前など手伝う(無償で)という、ひとのつ
ながりが密な、旧き良き時代の下町を絵に描いたような素敵なお店だった。
(そのM食堂も今はないらしい・・・)

二階のZさんの部屋に通されてびっくりした。
壁の中央には日の丸。
その前に大小の日本刀(真剣)がふた振り。(氏は剣道、居合道にも長けておられた)
三島由紀夫を中心にした盾の会のポスターが一枚。
さらにわざわざレコード店から取り寄せたという盾の会のシングルレコードまであった。
(ガルーダ・テツがこの部屋に入ったら泣いて喜んだろう)

肝を冷やしたのは次の瞬間だった。
別の部屋につれていかれ、「ここに寝ろ」という。
なんだか分からず仰向けに寝転がると、さっきの日本刀を抜いた先輩が私の体に垂直に
向き合いひざまずく体勢に。
日本刀を振りおろし、私の体寸前で止めるという。
しかし私が寝ている絨毯の周りにはあちらこちらに刀でつけた切り傷が。
「やめてください!」と絶叫する私をしり目に涼しい顔で刀を振り下ろす氏。

あのときは生きた心地がしなかった。

「武道などはちゃんとした職業を持った上で趣味でやるべきだ」との考えをお持ちの氏は、
地に足の着いた生き方のひとだ。

もう20年以上も前のことだと思う。
なにかの飲み会の二次会のカラオケスナックだった。
私の大好きな河島英五の「時代おくれ」を歌った。

ねたまぬように あせらぬように
飾った世界に 流されず

目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず

私が歌いたいというより、Zさんとダブるような歌詞を聴いてほしかったのかもしれない。

それまでこの歌を聴いたことがなかった氏だが、たいそう気にいっていただき、私のことを
「時代おくれの男」などと呼んでいただいた。

いやZさん、あなたこそ私に輪をかけた時代遅れですよ。

私の履歴書 その12

Zさんは当時3人いた茶帯の中でも中心的人物で1級だった。(数か月後、この道場での
生え抜き初の黒帯となる。新藤栄作氏も3人うちのひとりだった。)
175㎝、85Kgの頑健な肉体は、ブルース・リー主演「ドラゴンへの道」でリーの敵役を演じ
たチャック・ノリスのようであった。
関大合気道部入部後、途中で進路を極真空手に変更された。
(ただし合気道も指導できるほどの腕前である)

Oさんと一緒に、法学部の喫茶室のようなところでZさんと向かい合った。
Oさんが私を紹介してくれ、話が始まったが、そんな実力者を前に私は少々緊張気味。
そのうち頼みのOさんが授業かなにかで抜けてしまった。
あとに残されたZさんと私はポツポツと話し始めた。
当然空手の話である。 
そこで意外な言葉を耳にする。
「お前、あの道場にいてもうまくならんぞ」

私はびっくりした。
極真空手を愛してやまないだろうと思っていた先輩の口からの意外な言葉。
その真意は指導者の数に比して、練習生が多すぎるという極めて単純な理由だった。
実際私も「指導」というものを受けたのは、練習生の間を巡回してきたK先輩にひと言声を
かけてもらっただけだった。(時間にしてわずか10秒ほど!) 

その後Zさんの口から語られたのはは漫画「空手バカ一代」と現実とのギャップだった。
(バカだった私は漫画に創作が入り込んでいるとは考えもしなかった)
 
一時間と少しの間だったろうか。
私は饒舌とは言えないZさんにすっかり魅了されていた。
Zさんは近々道場を去るという。
「俺が教えてやる」というZさんの言葉に、私も同じ道をたどろうという気になっていた。

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