2011年10月

私の履歴書 その26

ここは国際神様連合日本。
その中の職業配置部近畿管区滋賀支部である。
時は2007年秋。

神様A「支部長、SKBG(Dropoutの前身)の責任者の座が空白になるようです。」
支部長の神様「え、なんやそれ?」
A「キックボクシングジムです。責任者は会長と呼ばれてます。」
支部長「へぇ、そんなんがあるんかいな。どれくらいの組織や?」
A「100人あるかないか、いうとこやと思います」
支部長「そんな大きいとこやないな。そんなんなんぼでも候補いるやろ。あ、住友商事
定年退職した伊藤さんおったやろ。あのひと200人くらい部下かかえてたから、あれがえ
えんちゃうか。」
A「あぁ伊藤さんね。人柄はええ思いますけど、永年の接待攻勢で171㎝、94Kgのメタボ
体型です。東北大学時代ボート部で鍛えた面影はまったくありません。それにもう60歳で
す。」
支部長「体型や年齢なんか関係あるんかいな?」
A「もちろんです。それだけやなしにキックボクシングを教える技術も必要です。」
支部長「なんや、教えなあかんのかいな。そんなん誰か雇て教えてもろたらええんちゃうん?」
A「金持ちのジムならそれも可能ですが、ここはひと雇えるほど儲かってません。」
支部長「難儀やな。ほなキックボクシング経験者でそこそこ実力がないとあかんと・・・」
A「そういうことです。」
支部長「特殊技能保持者登録部に訊いてみたか?」
A「もちろん訊きましたけど、キックボクシングいうたら野球やサッカーほど競技人口が多く
なく、近畿管区で候補者は4人。大阪にふたり、兵庫ひとり、京都にひとりいますけど全員
滋賀県は行きたないそうです。」
支部長「あかんなぁ、滋賀県は。わしも大阪から来るときはイヤやったけど、住んでみたら
けっこうエエとこなんやけどなぁ・・・」
A「で、内部から引っ張り上げよかと・・・」
支部長「なんや、そんなことできるんかいな。それ早よ言わんかい。」
A「間宮いうオッサンがおるんです。51歳で少々歳くってるんですが、5年前にプロで試合
しとるし、そこそこ動けます。」
支部長「今、なんの仕事しとんねん?」
A「M重工の下請け会社に所属して、M重工の工場で働いてます。」
支部長「転職に支障ないんかいな。」
A「正社員でもないし、キックボクシングに関係する仕事やったら喜んで受ける思います。」
支部長「会員からの受けは?」
A「尊敬はされてないみたいですけど、嫌われてもないようです。ただ・・・」
支部長「ただ、なんや?」
A「スケベでええかげんな性格らしいです。」
支部長「キックボクシングやってるヤツなんかみんなスケベやろ。新聞部やったお前かて
スケベやないかい。」
A「そういう支部長かて・・・」
支部長「なんやて?」
A「あ、イヤ・・・ まぁ性格の問題は置いといて、前任者の佐久間晋哉との実力差があり
すぎると思うのですが・・・」
支部長「「ぅん?、へぇ全日本キックボクシングチャンピオンか。で、この間宮いうオッサン
はプロ1戦で1敗か。」
A「そんなんでええのかと・・・」
支部長「もう、ええやろ。キックボクシングなんか日本全体から見たらどうでもええようなも
んや。こんな案件長いことかかってられへん。もうそのオッサンで行っとけ!」
A「わかりました。」

こんなやりとりがあって、今の私があるような気がします。

私の履歴書 その25

テストからひと月ほど経っていただろうか。
プロデビューの話が持ち上がった。
といっても、出場予定選手のひとりが直前にケガをして出場不可能。
各ジムに代わりの選手を出場打診してのものだった。

試合まで2週間ほどだったと記憶している。
テスト後もコンスタントに練習してたし、ウェルターでの試合なら体重の心配もない。
なによりプロのリングで試合をしたかったから受けたプロテストである。
断る理由なんかない。

2003年4月26日、後楽園ホールでその日を迎えた。
相手は同じくデビュー戦、ピコイジムの阿久澤英一選手。
確か21歳だった。
彼はこのときはウェルターだったが、2戦目か3戦目くらいからミドルにあげ、確か7戦目くら
いで第2代ミドル級王者に輝いた。

計量のときに、筋肉隆々でありながら絞り込まれた体に驚嘆した。
いつものように恐怖感はなかった。
いつもと違うのは、極度の緊張感に包まれるはずのそれがなかった。
なぜか「明鏡止水」というような境地に近かったかもしれない。
テストのときのようなメラメラと燃えるものはなかったように思う。
プロのリングに上がれたというだけで満足した部分があったかもしれない。

結果はほとんどなにもできず、2Rにローキックで3回のダウンを喫し2分04秒KO負け。
セコンドに抱えられながらリングを降りた。

「気持ちが燃えなかった」みたいなことを書いたが、気持ちがあっても到底勝てる相手で
はなかった。
それほど我々の間には大きな実力差があった。

試合後阿久澤選手のセコンドの方が私の控室に来られて「45だってねぇ。やるだけでも
すごいよ」と慰めていただいたが、恥ずかしくて「46です」とは言えなかった。

まったく不甲斐ない試合をしたことで、その後はエントリーしても二度とリングに声がかか
ることはなかった。
すべては私が情けない試合をしたせいであり、自業自得である。
こんな過去があるので、Dropoutの選手たちには完全燃焼の試合をさせて、できるだけ試
合に出させてやりたいと思うのである。
 

 

私の履歴書 その24

きのうの最後の表現は、ちょっと大げさすぎます。
「人生を大きく変える」なんて「プリティウーマン」のジュリアロバーツほどの劇的な変化に
は到底及びません。
まぁ、私の凡庸な人生にしては大きな変化ということでご了承ください。

その日はNOVAの英会話講師であった、ジムのショーン・キングと瀬田駅前のつぼ八で練
習後飲んでいた。(日本語へただったなぁ。今はどうしてることやら・・・)
そこで私の携帯電話が鳴った。
会長からだった。

私の相手選手が、プロテストとして試合をしたいと言っている。ついては間宮さんもそれで
どうですか、とのこと。

ぷろてすと。
耳を疑った。
この歳でそんな機会が与えられるなんて夢にも思わなかった。
結果は別として、それに挑戦できるスタートラインに立てる。
もちろんふたつ返事でOKした。

今からもう9年近くも前だったろうか。
場所は埼玉県のどこかだったと記憶している。
プロ興行の前に、アマチュア試合とともにテストは行われた。
ライト級でのテストだった。
相手は神武館のK選手。(のちにライト級で7、8戦は戦ったと思う)
当時23歳でちょうど私の半分。
タフな試合になるのは覚悟の上。
しかしこの千載一遇のチャンス、逃してなるものかと静かに燃えていた。

ゴングが鳴った。
立ち上がりからK選手は素早いストレート系パンチを放ってくる。
いきなり数発喰らってしまった。
(強い!)と思った。
今までの私なら、あの数発でもう諦めていただろう。
頭で勝手に勝ち負けを決めていた。
キックに限らず、なにごとにも自分の限界を自分で設定していた。
(俺はこんなもんだろう・・・)と。

しかしこのときは違った。
絶対勝ちたいと思っていた。
二度とないチャンスを逃してたまるかと思っていた。
最低限、悔いのない戦いをしようと思っていた。

右のミドルを放った。
無心という言葉があるが、本当にこのときは無心だった。
いきなりのミドルがK選手の左腹部にヒットした。
K選手のひざがわずかに落ちた。
すかさずワンツーを続け、二度目の右ミドルを放った。
これも腰が落ちた。
その後はストレート系やアッパーでコーナー際まで追い込んだ。
そこでレフェリーがスタンディングダウンを宣告。
もう一度ダウンをとれば2ノックダウンでKO勝ちだったが、それはとれずに1R終了。

リードを奪ったのは確実だ。

最終Rの2R開始のゴングが鳴る。
なにがなんでもこのまま逃げ切ろうと思った。
逃げ切るために3分間攻め続けよう、前に出続けよう。

長い3分だった。
「攻撃は最大の防御なり」をどこまで実践できたかはともかく、なんとかしのげた。
リングで大の字になりたいのをこらえてコーナーで立ってジャッジを待った。
判定で勝てた。
夢のようだったプロ資格を手にできた。

アマチュアを含め、キックの試合はおそらく40戦近くこなしたが、納得できた試合はこれだ
けである。

もちろん技術的なことではなく、諦めなかったこと。
それに尽きる。

私の履歴書 その23

さて滋賀県に拠点を得た私は、日々練習に励んだ。
私が入会した時点では、すでに当時高校生のヤスユキが空手着に身を包んで汗を流して
いた。(その後、少しして春野、紹も入ってくる)

ジムの水は私には合っていたようだ。
仕事がそう忙しくないこともあり、ほとんど毎日かよった。
今まではジムに在籍してても、中途半端だったが、ここではかなり頑張った。

こんなことはまったくの自己満足にすぎないが、私なりの理由付けがあった。
離婚して妻の方に残ったふたりの息子への贖罪のつもりだった。

まともな親でなかった。
せめて好きなことの中で苦しさを味わうことを自らに課そうと思った。
繰り返し言うが、完全な自己満足だ。
お門違いも甚だしい。
だが偽らざる、当時の私の気持ちだった。

関西でいくつかのアマ試合をこなしながらも、本格的リングでの試合にはこっちでは恵ま
れなかった。
K-U主催のアマ大会ならプロ用リングであったが、そのために高い交通費を払う気にも
なれず、関西での試合に甘んじていた。

しかし、どういう風の吹きまわしか、一度東京でやってみようという気になった。
だが当時の参加資格は、アマでも39歳までの年齢制限があった。(私は46歳だった)
会長に相談すると「来年も出られるように38で出ましょう!」ということになった。
(エエんかいな、こんなこと書いて・・・)

これが私の人生を大きく変える第一歩になるとは、その時は知る由もなかった。

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