2017年12月

仲間たち その12

大晦日に格闘技のテレビ中継をやり始めたのは十数年前からかな、と思ってたが、紅白と言う名の合戦を数十年前から

やってました。

 

選手たちの活躍で、NKB内でDropoutの存在も知られるようになってきた。

ただひとつ足りないものがあった。

チャンピオンベルトである。

 

今はそれほど欲しいとは思わないが、やはりわかりやすいシンボルとして当時は欲しかった。

そんなNKBのベルトにDropout勢として2008年10月に初めてトライしたのがヤスユキだった。

 

それまで確か負けが無く(一引き分け)、フェザー級の王位を賭けて富原誠選手と激突。

そこに驕りとまではいかずとも、油断めいたものがあったかもしれない。

戦前、真門ジムの山岡会長から富原選手の底知れぬ怖さについてアドバイス受けてたにも拘らず、(ヤスユキならやっ

てくれるだろう・・)という安易な気持ちが、少なくとも私にはあった。

 

結果はご存知のように、5R、2-0の判定負け。

山岡会長のご指摘どおり、その脅威の粘り腰と負けじ魂はヤスユキの技術を超えさせない大きく高い壁となって立ちふ

さがった。

しかしこの敗戦が、その後の彼の成長を後押ししてくれる大きな要因のひとつとなったこともまた事実。

 

もうひとりNKBフェザー級で連勝街道を突っ走るHIROKIにも光が当たり始める。

2009年12月、私の記憶では確か、NKBフェザー級王座決定戦出場をかけて当時4位のHIROKIと9位、テツジムの滑飛タ

イジ選手と激突。

結果は50-48、50-49、50-50の2-0でHIROKIの判定勝利。

それはそれでもちろんジムにとっては大きな喜びなのだが、試合中、私はひとつ大きく気になることがあった。

セコンドについてくれていたヤスユキの目だ。

 

私が来いと命じたわけでもないのに、わざわざ東京までセコンドを買って出てくれたヤスユキ。

心底HIROKIをサポートしていたはずだ。

しかし試合が経過するにつれ、HIROKIの優勢が浮き出てくるにつれその目が曇ってきた。

幼子が雑踏で母親とはぐれたことに気づいた時のような、寄る辺ない表情に私には映った。

 

HIROKIの手が挙がったときの彼の気持ちは痛いほどわかる。

(Dropoutの顔としてジムを引っ張ってきた俺より先にHIROKIがベルトを巻くのか・・)という無念や嫉妬が入

り混じったものだったろう。

これは私の推測だけで言ってるのではない。

数か月前に彼と飲んだ時に、初めてその疑問をぶつけてみた。

内心おだやかではなかったんではないか、と。

だいたい私の考えと似たような答えが返ってきた。

二十歳そこそこの若者だ、それで当たり前だと思う。

 

HIROKIの手が挙がった直後、彼に「また飲みに行こう」と誘いかけた。

それが指導者として正しいかどうかはわからないが、私にはそれしかなかった。

 

翌2010年2月、HIROKIはフェザー級のベルトを賭けて富原選手と戦う。

結果は49-48、50-49、50-48の3-0でHIROKIの戴冠はならなかった。

しかしこの結果になぜかホッとしていた私がいたのも事実なのだ。

 

ジムに初のベルトを迎えるのが会長として最大の喜びであるはずなのだし、それを逃した無念はもちろんある。

だが、これでまたHIROKIとヤスユキは同じラインで語り合えるという安堵もあったのだ。

どう考えてもアマチュアジムでしょう。

実力だけで割り切るべき、強い方を優先すべきなのに。

しかし、何度も言うが、この感情はふたりが同じ階級、同い年、どちらもが素晴らしい好青年であったがゆえだ。

ひとつ階級がちがってたら、ひとつ学年が違ってたら、またどちらかでもイヤな奴だったらこれは全然なかった。

かといってそれが私の甘さをカバーできる理由になるとも思ってないが。

 

ふたりに限ったことではないが、私はプロ選手たちの関係に一番気を遣っていた(つもりだ)。

それは多くは酒を媒体にしてものではあったのだが。

一度、なぜかジム内で私とヤスユキ、HIROKIの三人になったことがあった。

練習以外のなにかの時で、外は暗さを増していた夏の時期だった。

例のごとく、「ちょっと行こうか」とふたりを駅前のワタミに誘った。

20人弱くらいの、隣のおそらく龍谷大学のグループが騒がしく(もちろんやかましいのは少数)腹立たしかったのを

憶えている。

あっという間に時は過ぎて、結局朝方まで店にいた。

その後ジムに戻って三人で眠りに落ちました。

夏でよかった。

 

その後、ライト級のベルトを奪取したヤスユキをHIROKIは祝福し、お互いによき練習相手として変わらない関係

を続けてくれた。

これは両者の人間性のなせる業だろう。

 

このふたりだけでなく、私は選手たちのキャラクターにずいぶん救われた。

ありがとう。

 

 

てぃいぶれいく

今年中に「仲間たち」終わらせてしまうつもりだったのですが「ヤスユキ、HIROKI編」はどうしても慎重になってしま

い、あと三人、体重順に西尾、ヒノ拳、春野がはいらなくなってしまいました。

本日も今年最後の忘年会ご招待を受けておりますので、じっくりと腰が据わりません。

ゆえにもう諦めて年をまたぐことにします。

西尾新会長とのコラボという形になりますが、皆様ご了承ください。

最後の最後までシャキッとせずすいません。

 

さて昨日、最後の仕事を終えました。

年末の忙しい中、ジムに足を運んでくれた皆さん、ありがとう。

おまけに酒をメインに色々とお気遣いも頂戴し、感謝に耐えません。

今の我が家は酒屋の倉庫状態。

当分、酒にかける費用が激減しそうです。

 

最期のミットが「選手会長」春野で終わったのもなにかのめぐり合わせでしょうか。

キングムエの佐藤孝也会長がDropoutに取材に来られ、ウチのジムをネット上で「昭和の雰囲気が残るジム」と表現さ

れてました。

(そんな大げさな・・)とその時は思ってましたが、いたるところで壁紙が破れたジムはその通りなのかも。

大阪のムエタイジムを一年ほど経験したベトナム人のハイちゃんが、忘年会の時、初めてのジムの印象を「ボロボロだ

と思った」と言い、皆の爆笑を誘ってたが、確かにそうかもしれない。

(ハードより内容だ)と自負していた私の想いは、質実剛健を絵に描いたような、デコレーション抜きのかつてのNKB

に不思議と共通していたのか。

 

でも来年からは若くさわやかな西尾新会長が、その辺を刷新してくれることでしょう。

西尾Dropout、期待してください。

 

 

仲間たち その11

かつて、環と勝村兄弟から「HIROKIを優遇している」という風なことを言われたことがある。

「優遇」とまで強い表現ではなかっただろうが、「優しい」程度の表現されたことは事実だ。

それはおそらくヤスユキとの対比においてだろう。

つまりヤスユキよりHIROKIを可愛がってると。

 

私はまったくそんな気がなかったので驚いたが、(なるほど、そうとる人もあるか・・)と思い当たる節もある。

 

ジムのHPをご覧いただいてもわかるが、HIROKIの写真の方が多用されている。

HP作成時にはすでにヤスユキの方が注目されていたにも拘らず、なぜHIROKI?・・というところだと思う。

ヤスユキが注目されていたからこそのHIROKIなのである。

放っておいてもマスコミがヤスユキを追ってくれる。

ならばジムはHIROKIをバックアップしてやろう。

こういう考えである。

 

カッコつけてるわけではない。

14年4月20日に行われたREBELS26で、HIROKIとヤスユキは同時出場を果たす。

HIROKIは第5試合、ヤスユキはトリッキーな動きとユニークな言動で人気を集めていた町田光選手と第17試合のメイン

イベントで対戦。

ヤスユキは前半の圧倒的不利を覆し、5R逆転KO勝利。

12試合前に戦ったHIROKIも、三者とも30-27の判定で文句なしの勝ちを収めていた。

 

翌日、吉祥寺で行われたヤスユキの「一夜明け会見」を見ようと会場へ足を運んだ。

道に迷って数分遅れて会場入りした私を山口代表が見つけ、一区切りついたところでヤスユキの隣に座らせられた。

 

進行のO氏の質問が飛んでくる。

「上野方面(鶯谷)へは行かれましたか?」と軽いジャブから。

いくつかのやり取りが流れる中で、どういう質問だったかは覚えてないが、私の返答をはっきり覚えているものがあ

る。

「ヤスユキの勝ちはもちろんうれしいが、それ以上にHIROKIの勝ちがうれしい」だ。

 

NKBを抜けて主戦場をREBELSに変えたDropout。

そのREBELSでDropoutに初白星をもたらしてくれたのがHIROKIだった。

しかも強敵に1RKO勝利という衝撃の花を添えて。

 

しかしその後HIROKIを低迷が襲う。

このREBELS26の前4戦はKOこそないものの連敗が続いていた。

五つも黒星が続けば、誰でもモチベーションが低下するはず。

そこを一番危惧していた私に、あの勝利は心底うれしかった。

そう、ファン、マスコミが注目したヤスユキvs町田の結果よりも。

 

明日はまたNKB時代にさかのぼります。

 

 

 

 

 

仲間たち その10

私がDropoutの引退を早めた理由のひとつとして、ミットを持ってて腹部への攻撃を受けると、腸の内容物が飛び出し

そうに思うことがあります。

リング上の惨劇を避けるのは早めの方がいいかと・・

 

まだ私が会長でなかった時代、アマ時代のHIROKIの試合にもセコンドとして付き合いました。

彼と私ふたりということもありました。

特に彼に才能を感じて(プロに導きたい)と思ったわけではありません。

なんでしょう、単に先輩風を吹かせたかっただけなのか・・

もちろんサポートしてやろう、と思わせるキャラでなければやりませんが。

 

その後、私がDropoutを率いることになって、アマ大会に参加する選手もジワジワ増えてきた。

その頃はもうヤスユキはプロのリングに上がってたと思う。

しかしHIROKIは特にヤスユキを意識するでもなく、ただ自分のやるべきことをやっていたように思う。

プロのリングに対する切望があったかどうかもわからない。

私自身、特に誰かをプロに上げようという意識もなかったし。

 

ただ、アマで好成績を残し、本人も必然的にNKBのリングを意識しだしたろうし、私も当然その気になり、順調にその

権利を手にした。

デビュー戦はヘロヘロになりながらも判定で白星を手にしたHIROKIだったが、2戦目は得意の上段前蹴りでのKO勝ちを

飾る。

(最期だからちょっと自慢気に言わせていただくが、彼の特徴を掴んで私がこの技を磨かせた。)

ヒノ拳が試合直前のアップでHIROKIのミットを持ってくれてて、最後の方に上段前蹴りを受けてやってくれと頼んだの

を鮮明に憶えている。

ヤスユキもその日自分の出番はなかったが、わざわざ東京までセコンドとして出向いてくれていた。

Dropoutの「部活」が始動しだした頃かもしれない。

 

この後HIROKIはヤスユキとともにNKBフェザー級の連勝街道を突っ走ることになる。

 

 

 

仲間たち その9

ドコモショップでの店員の応対がイマイチだったので、席を外した時を見計らって、直径約2mmのハナクソふたつを

床に投下してやりました。

 

この「仲間たち」シリーズはひとり一編のスタンスで書いてきたが、フェザー級のふたりヤスユキとHIROKIは混在させ

た方がしっくりきます。

それでもまだ構成は脳内で固まってません。

書きながら固めていくことにします。

 

HIROKIに先んじること数年、高校一年でジムの門をたたいたヤスユキ。

大阪の横山ジムを皮切りに、いくつかのグローブ打撃競技ジムを渡ってきた私より先にジムにいた。

今でも騒がしいタイプの人間ではないが、当時はもっと物静かだったイメージがある。

ほとんど話した記憶がない。

高校生ならそんなものか。

 

ジムに来る時間帯が異なっていることもあり、あまり一緒に練習したことはなかったが、その時々ジムにいる実力者と

対人練習する姿勢は今(引退前まで)に通じる。

またこれも今に共通する事実だが、試合結果に対してほとんど言及しない。

特に不可解(微妙)な判定で相手の手が上がろうが、それに対して異議を唱えることもなく、すべてに納得しているよ

うに見える。

少なくとも周りから見る者の目には。

戦うこと、その事実こそが重要なのだと言外に語っているように映る。

 

そんなヤスユキのいるジムにHIROKIが入ってくる。

料理人として働く神戸で、SFKさんの存在を知り半年ほど通っていたという。

ただ修行中である身の、ある意味特殊な世界の住人であるゆえ、なかなか時間も作りにくく、週一回程度行くのがせい

ぜいだったそうだ。

その職を辞し、生まれ故郷である滋賀県に帰り、キックボクシングを継続することとなる。

 

その頃私はあまりジムにも顔を出してなく、彼が入ってきたときは知らない。

しかし、体格、年齢、体形等驚くほどヤスユキと似ていることに驚き、単純に(お互いにいい練習相手ができた

な・・)と喜んでいた。

 

その喜びは確かに間違ってはいなかったが、後年それが私を悩ますことになるとは当時はかけらも思いはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仲間たち その8

昨日、横綱審議委員会のオッサンのインタビュー見たけど、アンタ、品格のかけらもないやないかい!

 

なんとか私がDropoutにいる間にこのシリーズの完結、間に合いそうです。

 

フェザー級です。

私が一番頭を悩ませた階級です。

 

ヤスユキとHIROKIという、年齢(学年)、身長、体重、体形さえも一緒、ヤスユキの言葉を借りれば実力も「紙一重」

というふたりが同時期にいたからです。

しかもその紙一重である実力は、かなりの上位レベルで。

 

今、これを書きだそうとしている時点で構成が決まっていない。

どう書けばふたりを等身大で、また実際を表現できるのか。

 

ひと晩考えさせてください。

 

箸休め Dropoutはプロ集団か?

「ダメ人間」の称号を松居一代に持っていかれそうでビビッてる私です。

(ちなみに私と彼女は、同じ滋賀県近江八幡市出身です・・)

 

「仲間たち その5」で(この点に関しては・・)と書いたことについて、私なりの考えを述べます。

共感いただけるか否かは別にして。

 

「仲間たち」その5と7に登場した勝村隆介、翔平の兄弟はそれほど練習しない。

「百姓A」こと翔平は初めのうちこそ熱心に取り組んでたが、尻すぼみになっていった。

彼らの潜在力を見ていて(もったいないな)と思う。

もっと練習すればいいのに、と思う。

 

しかし、私はまったく「練習しろ」とは言わない。

選手まかせである。

選手の意志に任せている。

「それでプロと言えるのか!」というファンの皆様の叱責が聴こえてきそうである。

私なりの答えを披歴させていただきます。

 

相撲部屋や、タイのムエタイジムのように住み込みで稽古に臨むなら別だ。

スポーツに限らず、将棋や囲碁、落語などもそれにあたるだろう。

言い換えれば、衣食住を選手や弟子に保証している状態である。

それは、選手(弟子)が受け取る(あるいは部屋、ジムが選手に投下した金銭)額の多寡にかかわらずである。

要するにその競技(芸能等)だけで生計を立てているという状態であること。

これならば堂々と「練習しろ」と言うのだが。

主たる収入減が他にある以上、それに支障がない範囲で頑張れと言うしかない。

 

「そんないい加減な調整で、カネを払って見に来るファンの前に出てくるな」という声もあるに違いない。

まことに申し訳ない。

しかしその非難を浴びても、ここでも私は(Dropoutの)選手の側に立たせてもらう。

 

何においてもそうだが、「ここまでやればOK」という線引きは難しい。

しかも仕事があるならば、本業との折り合いも含めて本人の納得できるところ、というしかない。

ある選手は5時間であるかもしれないし、また別の選手は1時間かもしれない。

 

「そんな選手をリングに上げるな」という声があれば、それにはこう答えよう。

「オファーがあるうちはそれでいい」と。

 

練習量がリングでの動きにつながるならば、それはプロモーターからのオファーに跳ね返ってくる。

しかしそれは必ずしも練習量とイコールではない。

3時間練習してもオファーがない人もあり、30分でも声がかかる人もいるかもしれない。

商品価値は自らの裁量で作り出すしかない。

それが前座という商品価値であっても、本人さえ納得すればそれでいい。

リングに上がりたい欲求があれば、練習するしかないだろう。

自分の状況が許す範囲で。

 

いい加減な練習を続けている人は、内心「はじかれてもいい」という気持ちがあるはず。

それならそれで仕方ない。

いずれフェードアウトしていくだけだ。

資本主義社会の掟である。

 

Dropoutはアマチュア集団です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仲間たち その7

You tubeで竹原ピストル「よー、そこの若いの」と、楽天パンダのアニメCMにはまってる私です。

 

またフェザーに戻ります。

 

どん冷えの少し後に入門してきた勝村翔平。

のちに百姓Aのリングネームを名乗ることになる男である。

(リングネームOKのアマ試合エントリーの際に私がつけたのがそのままプロでも使用されることに。由来は黒澤映画の

時代劇に出てきそうな「農民その他大勢」みたいな風貌だったので・・)

前々回登場の、勝村隆介の実弟である。

 

小学生時代からサッカーに於いてその才能を開花、世界中を飛び回る。

私はサッカーはほとんど知らないが、ユースと言うのか、京都サンガの二軍的なところと契約したが、怪我でプロ入り

はかなわなかったという。(すいません、ホントにサッカーわかりません・・)

 

その身体能力は素晴らしく、格闘技初心者と思えないセンスを見せつけた。

年齢も近く、体格的にも近いどん冷えといろいろ練習させた。

ふたりもウマが合い、(強くなりたい)という共通の気持ちがふたりを近づけた。

アマ試合も積極的に参戦、環も含めて結構遠くまで遠征した。

 

しかしそのたぐい稀なる身体能力が陽の目を見ることはなかった。

10戦して全敗。

2戦目もしくは3戦目で、延長戦までもつれた試合は勝ったと思ったが、相手選手ジム主催試合で2-1のマスト判定で涙

を呑む。

そこらあたりから熱が薄れていったか、以前ほどジムに顔を出さなくなり、さらに黒星が増えていく悪循環に陥る。

何年か前に彼とどん冷えを「兎と亀」に例えたが、いまだにそれは間違ってなかったと思っている。

 

プロ選手としては底辺と言っていい存在の彼であったが、人間的には不思議な魅力を持つ人物だ。

子供を引き付ける能力は抜群。

アマ大会会場では、いつの間にかよそのジムの小学生選手の群れが彼の後を追いかけている。

子供ばかりではない。

いつぞやは、東京でのREBELS興業の計量後、(なにを食べようか・・)とレストラン街でショーウィンドウを眺めて

いたところ、九州から来られた40代くらいのご夫婦に声をかけられた。

訊かれるままに計量後に何を食べようか悩んでいたと答えたら、なんとご夫婦が一緒に食べようとご提案くださり、ラ

ンチのお相伴にあずかったそうな。

そんなことある?!

(ちなみにご夫婦はリングネームを聴いて爆笑されてたそうだ)

 

ふたたびリングに上がることはないと思う。

しかしその愛されキャラは努力して身に着くものではない。

生きていくうえでの大きな武器で躍進してくれることだろう。

 

仲間たち その6

軽量級から始まったこのシリーズですが、ちょっと割り込ませていただきます。

 

ライト級からスーパーライトあたりでやってきた、どん冷え貴哉。

その名前の由来は、話のオチがイマイチで、寒かったから。

当初の「クーラー谷口」を経て、どん冷えとなった。

 

名前とは裏腹に熱い試合をする彼も、Dropoutに加わって、もう5年以上になる。

アマ、プロを通じてハイペースで試合を重ねてきた。

その強さを追及する姿勢はジムNo.1と言ってもいいだろう。

 

またまた本人には失礼なのを承知で申し上げるが、入門当初はそれほど際立った才能を感じなかった。

入門当初と書いたが、今までに至るまで「際立った」才能を感じたことはなかった。

しかしそれはあくまで技術面においてである。

先述の向上心、熱意はピカイチであるのは論を俟たない。

努力する才能という、ある面一番大事な要素を持っている。

それ付随するスタミナも大きな武器だ。

 

相手が誰であろうが、オファーさえあればだれでも受けてきた。

それゆえに勝率が落ちている面もある。

しかしそれさえも気にせず、強い相手との対戦を望んできた。

 

遅いデビューを取り戻すかのように突っ走るどん冷え。

100点の試合を味わう日も近いと確信している。

 

 

 

 

仲間たち その5

今年の紅白、エレファントカシマシと竹原ピストルは見ようと思ってる私です。

 

体重の軽いところからスタートしたこのシリーズ、次はやはりこの男だろう。

勝村隆介。

 

バンタムあたりで4回戦い、1勝1敗2分けと29歳という年齢にしては戦績は少ない。

しかもデビューは2013年8月と4年ほど前。

だが、キックボクシングのキャリアは高校時代からで優に10年を超える。

秘めたるセンスがありながら、プロのリング(それどころかアマ試合も数えるほどしか出てなかった)にそれほどの憧

れがあるわけでもなく、親しい友人とふたりでたまにジムに現れ、判で押したような淡々とした練習を繰り返すだけ

だった。

 

それが、Dropoutがフリーとなり、地元に近い京都でできるからか、先述のREBELS with Dropoutでデビューする。

相手は、その後いくつかのイベントでランキングに名を連ねるようになる強豪、SFKの小野剛士選手だった。

 

デビュー戦の硬さもも見られず、いい動きで3R終了のゴングを聞いた。

私は勝ったと思ったが、判定は三者とも29-29のドロー。

しかし試合後、相手側コーナーにあいさつに行ったとき、SFKの寒川代表から「君が勝ってた」と囁かれたという。

 

(もっと本気で練習してれば・・)という気持ちにさせる男である。

(この点に関しては後日、私なりの考えを述べさせていただくつもりです)

 

ただこの間のジム忘年会で、「またリングに上がりたい」との意志表明。

納屋に埋もれていたフェラーリを完全レストアするごとく、錆を完全に落とした流麗な姿を見せてほしい。

 

もう時間はないぞ。

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