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私の履歴書

優しいね

川崎市で起こった、中一少年殺害事件。

主犯とみられる、18歳のリーダー格の殺害現場での実況見分が昨日あった。

 

ニュース映像を観て驚きました。

鬼畜18歳は、グレイのビニールに覆われた電話ボックスくらいの「箱」に入れられて見分が行われていた。

さらにもっと大きな、ドーム風とでも言えばいいのか、青いビニールシートに完全隔離されても続けられたようだ。

 

これは神奈川県警の発案で行われたという。

もう、開いた口がふさがりません。

未成年犯罪を意識したものに間違いありません。

当然マスコミが押し寄せ、容疑者の顔が出る恐れがある。

朝◯新聞やその系列テレビなどがギャーギャー騒ぎそうだから、先手を打ったのでしょうか。

はぁ~、こんな極悪人にさえどこまでも優しいニッポンジン。

 

一番気の毒に思えたのが、あのビニールシートなどを持たされた警察官。

おそらく(なんでこんなクソガキのためにこんなことせんならんねん!・・)って思われてたことでしょう。

あのために10人近くの余分な人手を要したと思います。

そこまでせなあきませんか。

細かいこと言えば、こやつはひとりの前途ある少年の命を奪っといて、税金さえも無駄使いさしとる。

 

も、ええやん。

どうせネット上や週刊新潮には顔写真も実名も出とる。

顔さらしたったらええねん。

どうせテレビはボカシかけよるやろ。

野次馬に見られたかて、こいつが自ら蒔いた種や。

自分で刈り取れ。

 

 

 

とうとう最後 私の履歴書

 

中国の富裕層は、祖国を見限って海外移住を始めてるそうです。

日本もそうなるような気がします。

 

今までお付き合いいただきありがとうございました。

「私の履歴書」本日をもって終了いたします。

とりたてて運動能力に優れたわけでもない私が、なぜかキックボクシングジムのヘッドに

なってしまった経緯が少しは伝わったでしょうか。

 

謙遜でもなんでもなく、私はキックボクサーとしては三流だと思ってます。

しかし今の立場は選手ではありません。

 

「名監督必ずしも名監督ならず」という言葉があります。

これを頼りにしていく、というよりこれにすがらざるをえません。

 

多くの競技もそうですが、キックボクシングは技術差だけが勝敗を分けるものではありま

せん。

技術で100点はとれなくても、他の部門でそこを穴埋めして総合力で勝てばいい。

そう思っています。

 

私はいい加減な人間ですが、妙なところで責任感の強いところがある。

私についてきてくれた人間、強くなりたい、プロになりたいと思ってDropoutの門を叩いてく

れたひとについて最低現の責任を果たさねばならない。

その頂点はやはりプロだろう。

「このジムにいなければもっと強くなれてた」なんて思わせたら指導者失格だ。

 

私には満点の技術はない。

しかしそれをバックアップできるものは多くある。

一見不利に思える55歳という年齢、それはいい加減とはいえ歩んできた人生の積み重

ね、いや、いい加減だからこそ自信を持って口を開ける部分もある。

冗談好き、酒好き、好色etc.・・・ 

キックボクシングにはまったく関係ない、私に付随するすべての要素さえキックボクシング

に収斂させていこう。

 

三流人間が一流を生み出そうと考えている。

私の履歴書 その26

ここは国際神様連合日本。
その中の職業配置部近畿管区滋賀支部である。
時は2007年秋。

神様A「支部長、SKBG(Dropoutの前身)の責任者の座が空白になるようです。」
支部長の神様「え、なんやそれ?」
A「キックボクシングジムです。責任者は会長と呼ばれてます。」
支部長「へぇ、そんなんがあるんかいな。どれくらいの組織や?」
A「100人あるかないか、いうとこやと思います」
支部長「そんな大きいとこやないな。そんなんなんぼでも候補いるやろ。あ、住友商事
定年退職した伊藤さんおったやろ。あのひと200人くらい部下かかえてたから、あれがえ
えんちゃうか。」
A「あぁ伊藤さんね。人柄はええ思いますけど、永年の接待攻勢で171㎝、94Kgのメタボ
体型です。東北大学時代ボート部で鍛えた面影はまったくありません。それにもう60歳で
す。」
支部長「体型や年齢なんか関係あるんかいな?」
A「もちろんです。それだけやなしにキックボクシングを教える技術も必要です。」
支部長「なんや、教えなあかんのかいな。そんなん誰か雇て教えてもろたらええんちゃうん?」
A「金持ちのジムならそれも可能ですが、ここはひと雇えるほど儲かってません。」
支部長「難儀やな。ほなキックボクシング経験者でそこそこ実力がないとあかんと・・・」
A「そういうことです。」
支部長「特殊技能保持者登録部に訊いてみたか?」
A「もちろん訊きましたけど、キックボクシングいうたら野球やサッカーほど競技人口が多く
なく、近畿管区で候補者は4人。大阪にふたり、兵庫ひとり、京都にひとりいますけど全員
滋賀県は行きたないそうです。」
支部長「あかんなぁ、滋賀県は。わしも大阪から来るときはイヤやったけど、住んでみたら
けっこうエエとこなんやけどなぁ・・・」
A「で、内部から引っ張り上げよかと・・・」
支部長「なんや、そんなことできるんかいな。それ早よ言わんかい。」
A「間宮いうオッサンがおるんです。51歳で少々歳くってるんですが、5年前にプロで試合
しとるし、そこそこ動けます。」
支部長「今、なんの仕事しとんねん?」
A「M重工の下請け会社に所属して、M重工の工場で働いてます。」
支部長「転職に支障ないんかいな。」
A「正社員でもないし、キックボクシングに関係する仕事やったら喜んで受ける思います。」
支部長「会員からの受けは?」
A「尊敬はされてないみたいですけど、嫌われてもないようです。ただ・・・」
支部長「ただ、なんや?」
A「スケベでええかげんな性格らしいです。」
支部長「キックボクシングやってるヤツなんかみんなスケベやろ。新聞部やったお前かて
スケベやないかい。」
A「そういう支部長かて・・・」
支部長「なんやて?」
A「あ、イヤ・・・ まぁ性格の問題は置いといて、前任者の佐久間晋哉との実力差があり
すぎると思うのですが・・・」
支部長「「ぅん?、へぇ全日本キックボクシングチャンピオンか。で、この間宮いうオッサン
はプロ1戦で1敗か。」
A「そんなんでええのかと・・・」
支部長「もう、ええやろ。キックボクシングなんか日本全体から見たらどうでもええようなも
んや。こんな案件長いことかかってられへん。もうそのオッサンで行っとけ!」
A「わかりました。」

こんなやりとりがあって、今の私があるような気がします。

私の履歴書 その25

テストからひと月ほど経っていただろうか。
プロデビューの話が持ち上がった。
といっても、出場予定選手のひとりが直前にケガをして出場不可能。
各ジムに代わりの選手を出場打診してのものだった。

試合まで2週間ほどだったと記憶している。
テスト後もコンスタントに練習してたし、ウェルターでの試合なら体重の心配もない。
なによりプロのリングで試合をしたかったから受けたプロテストである。
断る理由なんかない。

2003年4月26日、後楽園ホールでその日を迎えた。
相手は同じくデビュー戦、ピコイジムの阿久澤英一選手。
確か21歳だった。
彼はこのときはウェルターだったが、2戦目か3戦目くらいからミドルにあげ、確か7戦目くら
いで第2代ミドル級王者に輝いた。

計量のときに、筋肉隆々でありながら絞り込まれた体に驚嘆した。
いつものように恐怖感はなかった。
いつもと違うのは、極度の緊張感に包まれるはずのそれがなかった。
なぜか「明鏡止水」というような境地に近かったかもしれない。
テストのときのようなメラメラと燃えるものはなかったように思う。
プロのリングに上がれたというだけで満足した部分があったかもしれない。

結果はほとんどなにもできず、2Rにローキックで3回のダウンを喫し2分04秒KO負け。
セコンドに抱えられながらリングを降りた。

「気持ちが燃えなかった」みたいなことを書いたが、気持ちがあっても到底勝てる相手で
はなかった。
それほど我々の間には大きな実力差があった。

試合後阿久澤選手のセコンドの方が私の控室に来られて「45だってねぇ。やるだけでも
すごいよ」と慰めていただいたが、恥ずかしくて「46です」とは言えなかった。

まったく不甲斐ない試合をしたことで、その後はエントリーしても二度とリングに声がかか
ることはなかった。
すべては私が情けない試合をしたせいであり、自業自得である。
こんな過去があるので、Dropoutの選手たちには完全燃焼の試合をさせて、できるだけ試
合に出させてやりたいと思うのである。
 

 

私の履歴書 その24

きのうの最後の表現は、ちょっと大げさすぎます。
「人生を大きく変える」なんて「プリティウーマン」のジュリアロバーツほどの劇的な変化に
は到底及びません。
まぁ、私の凡庸な人生にしては大きな変化ということでご了承ください。

その日はNOVAの英会話講師であった、ジムのショーン・キングと瀬田駅前のつぼ八で練
習後飲んでいた。(日本語へただったなぁ。今はどうしてることやら・・・)
そこで私の携帯電話が鳴った。
会長からだった。

私の相手選手が、プロテストとして試合をしたいと言っている。ついては間宮さんもそれで
どうですか、とのこと。

ぷろてすと。
耳を疑った。
この歳でそんな機会が与えられるなんて夢にも思わなかった。
結果は別として、それに挑戦できるスタートラインに立てる。
もちろんふたつ返事でOKした。

今からもう9年近くも前だったろうか。
場所は埼玉県のどこかだったと記憶している。
プロ興行の前に、アマチュア試合とともにテストは行われた。
ライト級でのテストだった。
相手は神武館のK選手。(のちにライト級で7、8戦は戦ったと思う)
当時23歳でちょうど私の半分。
タフな試合になるのは覚悟の上。
しかしこの千載一遇のチャンス、逃してなるものかと静かに燃えていた。

ゴングが鳴った。
立ち上がりからK選手は素早いストレート系パンチを放ってくる。
いきなり数発喰らってしまった。
(強い!)と思った。
今までの私なら、あの数発でもう諦めていただろう。
頭で勝手に勝ち負けを決めていた。
キックに限らず、なにごとにも自分の限界を自分で設定していた。
(俺はこんなもんだろう・・・)と。

しかしこのときは違った。
絶対勝ちたいと思っていた。
二度とないチャンスを逃してたまるかと思っていた。
最低限、悔いのない戦いをしようと思っていた。

右のミドルを放った。
無心という言葉があるが、本当にこのときは無心だった。
いきなりのミドルがK選手の左腹部にヒットした。
K選手のひざがわずかに落ちた。
すかさずワンツーを続け、二度目の右ミドルを放った。
これも腰が落ちた。
その後はストレート系やアッパーでコーナー際まで追い込んだ。
そこでレフェリーがスタンディングダウンを宣告。
もう一度ダウンをとれば2ノックダウンでKO勝ちだったが、それはとれずに1R終了。

リードを奪ったのは確実だ。

最終Rの2R開始のゴングが鳴る。
なにがなんでもこのまま逃げ切ろうと思った。
逃げ切るために3分間攻め続けよう、前に出続けよう。

長い3分だった。
「攻撃は最大の防御なり」をどこまで実践できたかはともかく、なんとかしのげた。
リングで大の字になりたいのをこらえてコーナーで立ってジャッジを待った。
判定で勝てた。
夢のようだったプロ資格を手にできた。

アマチュアを含め、キックの試合はおそらく40戦近くこなしたが、納得できた試合はこれだ
けである。

もちろん技術的なことではなく、諦めなかったこと。
それに尽きる。

私の履歴書 その23

さて滋賀県に拠点を得た私は、日々練習に励んだ。
私が入会した時点では、すでに当時高校生のヤスユキが空手着に身を包んで汗を流して
いた。(その後、少しして春野、紹も入ってくる)

ジムの水は私には合っていたようだ。
仕事がそう忙しくないこともあり、ほとんど毎日かよった。
今まではジムに在籍してても、中途半端だったが、ここではかなり頑張った。

こんなことはまったくの自己満足にすぎないが、私なりの理由付けがあった。
離婚して妻の方に残ったふたりの息子への贖罪のつもりだった。

まともな親でなかった。
せめて好きなことの中で苦しさを味わうことを自らに課そうと思った。
繰り返し言うが、完全な自己満足だ。
お門違いも甚だしい。
だが偽らざる、当時の私の気持ちだった。

関西でいくつかのアマ試合をこなしながらも、本格的リングでの試合にはこっちでは恵ま
れなかった。
K-U主催のアマ大会ならプロ用リングであったが、そのために高い交通費を払う気にも
なれず、関西での試合に甘んじていた。

しかし、どういう風の吹きまわしか、一度東京でやってみようという気になった。
だが当時の参加資格は、アマでも39歳までの年齢制限があった。(私は46歳だった)
会長に相談すると「来年も出られるように38で出ましょう!」ということになった。
(エエんかいな、こんなこと書いて・・・)

これが私の人生を大きく変える第一歩になるとは、その時は知る由もなかった。

私の履歴書 その21

その京都のS道場が大会を開催した。
空手、キックボクシング、ボクシングの各部門があった。
当然私はキックに出場した。

大会はオープン形式だったかもしれないが、結果的に出たのはSの練習生だけだった。
出場人数も多くはなく、私の出た階級は8人のトーナメント。
つまり3回勝てば優勝という少々寂しいものだった。

M先生もボクシングのレフェリーを務めるために来てらした。
キックボクシングに出場した8選手中、唯一ボクシングクラスに顔を出していた私のために
丁寧にバンテージを巻いていただいた。
嬉しかった。

1回戦は1Rで2回のスタンディングダウンを奪いKO勝ち。
2、3回戦は、どちらも判定勝ちで優勝。
参加者のレベルからいって、それほどの嬉しさはなかった。

私は参加しなかったその夜の打ち上げの様子を、後日誰かから聞いた。
M先生はキックトーナメントに出場した若い選手たちに「お前らあんなオッサンに負けて恥
ずかしいと思わんのか」と説教されてたらしい。
でも私からすれば、キャリアはこっちの方が長いのだし、勝って当然だと思っていた。

そのM先生がある日私に言われた。
「お前は指導者になったら絶対ええ指導者になる」と。

私のなにをもってそうおっしゃったのかはわからないが、その頃は「指導者」なんて天地
がひっくり返ってもなれるとは思わなかったし、なろうとも思わなかった。
(私は自分という人間をよく知っている)

しかしその後、神様のイタズラで(本当に私はそう思っている)そういう話が降ってわいた。
そのときに私の頭の片隅に引っかかっていた、M先生のこの言葉がいくらか背中を押して
くれたことは確かだ。

今は亡きM先生、あなたの指導精神の何割かは私の中で息づいているのは間違いあり
ません。

私の履歴書 その20

19日までに、このシリーズ終わりそうにありません。
まぁええわ、行き当たりばったりの人生、適当に行きます。

41、2歳だったと思う。
それまで勤務していた会社の計理課長に誘われ、同業種の会社設立を持ちかけられ、滋
賀県に戻る。(え、会社?当然うまくいきませんでしたよ)
それで寝屋川ジムを離れることになり、体を動かせるところを捜した。
仕事で京都市内を走っていて、偶然Sというところを見つけた。

そこは「空手、キックボクシング、ボクシング」等、複数の競技の看板を掲げていた。
早速飛び込んで話を訊くと、京都市内にもう一か所道場があり、各曜日の時間帯ごとに
各競技のスケジュールが決まっている。
たとえば空手がやりたければ、月曜日は19時からA道場、火曜日はB道場で20時からと、
それを集中して受けることができる。

私は体験練習もせずに入会申し込みした。
キッククラスに出てみて、ちょっと今までと違うやり方にとまどった。
空手の練習スタイルに近い。
今までの「アメリカンスタイル」というか、好きな時間に来て好きな時間に帰るというもので
はなかった。(もちろんこれにも大きなメリットがあるが)
           
そこでメインをボクシングクラスに移すことにした。
もともとパンチの打ち方に確固たる自信を持てなかった私である。
ここで根本的に教えてもらおうと、ボクシングクラスに顔を出した。

ボクシングの先生、Mさんは年齢は今の私より少し若いくらいの50代前半だったと思う。
175㎝くらいの長身で細身、メガネをかけ、大きな声で明るくユーモアある魅力的なひとだ
った。
私はすっかりM先生に魅了され、ボクシングクラスを追いかけだした。

ボクシングは空手やキックに比べて受講生は少なかった。
その少ないひとたちもほとんどが経験者の上級者で、私のようなヘタクソは他に誰もいな
かったと思う。

そんな歳くった変わり種が現れたからだろうか、M先生は面白がってか丁寧に教えてくだ
さった。
少しは私のパンチ技術も向上したと思う。
若いとは言えない私を「ジッちゃん」と呼び、よくイジられた。
私は先生にそうしてイジられるのが好きだった。

そのM先生が目をかけている選手がいた。
160㎝台半ばで浅黒いフィリピン人のような顔立ちの青年だった。

青年も最初は私のことを「変なオッサンやなぁ」と思ってたと思う。
しかし私が飽きずに通ってくるのを認めてくれたか、次第に言葉を交わしてくれるようにな
った。

格闘技はボクシングしか興味がないかと思っていたが、彼はのちにあるアマキックの大会
に出場し、ほとんどパンチ技術だけで優勝してしまう。
そんな彼を見た主催者は彼をキックの道に誘い込み、キックボクサーへと転向してゆく。

のちにNKB第4代バンタム級チャンピオンとなり、現京都真門ジム会長の野口康裕との出
逢いにまつわる話である。

私の履歴書 その19

9日に書いたように、転職したおかげで横山ジムを離れざるをえなくなった。
当時住んでいた東大阪市から、本社のある枚方市まで、片道2時間ほどのクルマ通勤が
始まった。(のちに大阪市内の営業所に異動となり楽になった)

ある日、その通勤途中にある看板を見かけた。
赤地に黒で描かれた男がふたり、ひとりがもうひとりにハイキックを浴びせている絵。
横には「SHOOT BOXING」の文字が。

シュートボクシングに関しての知識はあった。
大雑把に言えば、キックボクシングの技術に投げを加えたものと言えるだろう。(現在は立
ち関節も認められているようだ)
コスチュームはロングスパッツで、体重区分もバンタム、フェザーなどは用いず、鳥の名前
(イーグル級など)で表現していた。
これは創始者のシーザー武士氏がキックボクシングとの違いを打ち出すための工夫だっ
たと思う。

早速、見学のためジムを訪れると、ドア横の机に温厚そうなひとが座っておられた。

中山会長だった。
会長は私のことを「ご主人」と呼ばれた。
まだ30代後半だった私をそんな呼び方をする。
裏を読めば、あの頃はその歳で打撃系格闘技、しかも顔面打撃の格闘技をやるひとが
極めて少なかったという証しだろう。

あの頃は今のように、顔面打撃制のオープン参加式の大会は多くなかった。
しかもその中でシュートボクシングはトーナメント制をとっており、軽、中、重量級に分かれ
た上位入賞者は相当にレベルが高かった。(特に参加人数の多い軽、中両級は)


今もウチの選手たちを引き連れて出げいこに行かせていただくなど、中山会長にはお世
話になっております。

私の履歴書 その18

また少しだけ時間を戻します。

リング上でのたうちながらも、私はキックボクシングの魅力に取りつかれていった。
ジムに入会してから3ヶ月ほど経った頃だろうか。
アマチュアの試合が開催されることになった。

試合と言っても練習試合というもので、現在よく見られる、参加料を徴収してのオープン参
加形式ではなかったと記憶している。
「練習試合」というのは、その頃大阪府にジムをかまえ,、JKFという団体を形成していた
北心、豊中、多田、横山の四つのジムの交流戦のようなものだった。

試合は豊中ジムで行われた。
初めて訪れるよそのジム、そこに集う、アマチュアとはいえ多数のキックボクサーの若者
たち。
すべてのひとが私より強く見える。
生まれついての小心者の私は、極度の緊張状態に置かれていた。

試合は3分2Rだったと思う。
私の番が来た。
相手の名前も所属ジムも覚えていない。
ただ180㎝近い長身だったことと二十歳そこそこの、私よりひとまわりほど若い青年だった
ことしか記憶にない。

ゴングが鳴った。
相手はものすごい勢いでパンチを撃ってくる。
私も応戦するが6:4か7:3で相手が有利。
しかし今考えれば、相手選手の技術もたいしたことはなかったはずだ。
初心者にありがちなただ闇雲に大ぶりのパンチをふりまわすだけの試合だった。
私は1Rの途中でもう勝ちをあきらめていた。
それは相手がとてつもないスタミナの持ち主に思えたからだ。

ところが、後半くらいからスピードが鈍ってきた。
当然だろう、いくら若くてもあれだけ全開でくればスタミナも持つまい。
当時はそんなことさえわからなかった。

結局2Rは互角くらいに盛り返したと思うが、1R前半の劣勢により私の判定負け。

2戦目はどこでやったかも、どんな試合だったかもまったく記憶がないがこれも判定負け。

そして3戦目。
多田ジムで行われた試合だった。
このときの相手も所属ジムも覚えてない。

どういう試合展開だったかも覚えてないが、1Rはとったという実感があった。
セコンドについてくれてたY兄弟も声をからして応援してくれ、インターバルにはY兄が「間
宮さん、勝ってますよ!」と勇気づけてくれた。

第2Rも1Rのような状況を維持し試合終了。
判定ではあるが、初白星を手にすることができた。

勝てたことも嬉しかったが、ジムの仲間が我がことのように声援を送ってくれたことが嬉し
かった。

後年、葵勇之進が初のアマ試合後に語った名言「キックボクシングはチームプレイだ」と
根は同じだ。

4戦目は横山ジムで行われ、初のKO勝ち。
その後は勝ったり負けたりを繰り返したが、本来の入門動機「フルコン空手へのリベンジ」
はもうどうでもよく、キックボクシングにドップリつかっている私がいた。

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